全部 多分嘘でちがう そこにはずっとなかった

 車に轢かれた犬を見た。白と黒のぶち模様でディズニー映画に出ていた、あれ、ほら、なんだっけ、ラブラドールでもシェパードでもなくて、そうだ。ダルメシアンだ。それが、片側一車線の道路の隅の方でだらんと四肢を広げていた。首輪は、ない。野良のダルメシアンなんているのだろうか。すでに誰かが呼んだんであろう、警官が数人で車の交通整理をしている。なにしろ狭い道路なので、こっちを進めるとあっちが止まる。特に工事の看板があるわけでも立ち入り禁止の黄色のテープが張りめぐらされているわけでもないので時々苛立ったようなクラクションの音がする。
 私はずっと動けずにいた。通り過ぎる人たちの会話が聞こえる。「かわいそう」だとか「ひどい」とか赤ん坊を連れた若い母親はそっちを少しも見ずに立ち去った。その、道路に流れて飛び散った血の赤色を目に焼き付ける。白と黒の皮膚の下から内臓がずるりと出ている。尻尾はタイヤの跡がついて地面に同化していた。惨たらしく。これ見よがし的に。私はなんでこれに布でもビニールシートでも掛けてやらないのだろうと疑問に思う。こういうのは轢かれた犬に対して敬意を持って接するべきではないのかと少し腹立たしくも思う。
 私はまだ動けない。時計を見ていないのでどのくらいここに突っ立ったままなのかは分からないけど、そろそろ夕飯の支度をしに家に帰らなくてはいけないのは日の傾きで分かった。時々、ちらりと警官が私の方を見た。いかにも不審者を見るような目つきが気に食わなかった。私は何もしていないのに。ただ、それを見ているだけなのに。
 寒い。足が冷え切っていた。私はコンビニで暖かい缶コーヒーでも買おうと歩こうとする。する、のだけど何故だか足が上がらなかった。そこの、尻尾と同じように道路に引っ付いてとれない。脳からは確実に足に動けと伝達してるはずなのに、動かない。その代わりに膝からぐしゃりと崩れ落ちた。急激に感情の波がやってきて私にはどうすることも出来ない。


 羨ましい。妬ましい。ずるい。なんで。こんなに簡単に。だめだったのに。私はだめだったのに。呆気なく。


 あんなにたくさんの血を流した私が生きててなんでこいつはこんなに楽に死ねるんだろう。こんなに少しの血だけで死ねるんだ。お得じゃん。大体、私の血の色は赤じゃなかった。黒だった。だからだめだったのかな。赤じゃなくて黒だったから、だから死ねなかったのかな。どうやったら赤い血が流れるのかな。代わってよ。いいよ。私が死んでやるからお前は生き返って。私だって野良みたいなもんだから。ずっとふらふらしてるだけでどこにも属してないからあんたと同じだよ。ひょっとしたらそれ以下かも知れないけど。ああ。ごめんね。こんな嫌な奴に一緒だなんて言われるのはむかつくよね。それは謝るわ。謝るから代わってよ。土下座してもいいよ。それで気が済むんならいくらでもしてやるよ。お願いします。代わってください。お願いします。


 肩を強く揺す振られた。のろのろと顔をあげると、あの、私に不審者扱いの視線をよこした警官が「大丈夫?」と声をかけてきた。ちっとも大丈夫ではないけれども一応「大丈夫です」と答え、立ち上がる。目眩がした。

 「お姉さん、あの犬の飼い主?」
 「いえ、違います」
 「随分長いこと見てたよね」
 「はあ」
 「顔が青ざめてて、あ、こりゃヤバいかなーと」
 「はあ」
 「まあ、ショックだよね。あんまり見ていて気持ちのいいものじゃないしね」
 「はあ」
 「本当に顔色悪いから、大丈夫?家近いの?」
 「はい」
 「じゃあ、もう帰った方がいいよ。真っ青だよ」
 「はい」


 軽くお辞儀をして信号を渡る。さっきまで地面と同化していたはずの足は難なく上がった。そのまままっすぐ家に帰り、玄関で吐いた。腹筋が痛くなるまで吐き続けた私の足はまた動かなくなった。むせ返る吐瀉物の匂いの中でさっきの光景が浮かび、肩を震わせてしゃくり上げた。苦しい。苦しい。だけど、もう、どこにも行けない。