願うなら さよならと 笑えるより

 朝起きてご飯を食べて電車に乗って会社へ行って仕事をしてたまに残業があったり同僚と飲んだりしてまた電車に揺られて家に着いたらお風呂に浸かって軽く晩酌をしてから眠る×平日五日間。休みの日は昼まで眠り、部屋の掃除と洗濯と買い物と読書と散歩を二日に分けて行う。これがナオの基本スケジュールだ。ただ、ナオもロボットではなくヒトなので時々寝坊をして朝ごはんを抜かしたり、飲み過ぎて終電を逃して漫画喫茶で夜を明かしたり、友人と一緒に映画を観に行ったりする。それでも他の人と比べたら真っ当で(真っ当の定義に個人差はあるだろうけれども私の定規ではかるところの)特に面白みのない生活だと思う。
 その真っ当で面白みのない暮らしに少し変化が起こった。どういう変化かというと、携帯電話を小一時間ほど見つめてため息をついたり、マニキュアに凝ってみたり、鏡と向き合う時間が増えたり、ローテーションで着て多少くたびれたスーツを買い替えたり、好きだった柑橘系の香りの香水より甘い花の香りがする香水をつけるようになったり、眠れない夜が続いたり、要は恋をした。らしい。家賃の問題で同居を始めてから二年半にして初めての事態だ。
 そもそもナオはどちらかというと地味な子で学生時代は手芸部の部長を務め、図書室でいつも本を読んでいた。そしてどちらかというと派手な私は部活動には入らず学校帰りには繁華街に寄って頭の軽い仲間とつるんでいた。普通に考えたら接点の無い私たちが仲良くなったのはリエの結婚式がきっかけだった。暗そうだと思っていたナオは案外社交的で初めて結婚式に参列してオロオロしていた私を何かとフォローしてくれてそこから付き合いが始まった。
 私は不規則な時間帯で働いているので家のことを何の文句も言わずしてくれるナオがとても有難い。ただ、今一つ踏み込めない所を彼女は持っていてそれは私をとても戸惑わせた。誰に対してもオープンでいく私にとって、ナオのそういう部分はいまいち理解ができない。この問題は結構私を悩ませたがまあ、いつかは解決するだろうなぐらいに考えていた。
 そして今、私たちはリビングテーブルに向かい合わせに座っている。さっきナオから「ちょっと相談したいことがある」と呼ばれたのだ。ティーカップには紅茶が淹れられていたが湯気はもう出ていない。ナオはずっと黙りこくったままで私は辛抱強く向こうが喋りだすのを待っていた。
 時計の針が動く音だけが響く。もう呼ばれてから20分ほど経過している。これはもう私から話しかけるしかないなと諦めた瞬間、ナオの口が開いた。
「好きな人ができたの」
 私はその言葉にへーそうなんだーと返しながらやっぱり、と思った。
「どんな人?」
「…きれいな人」
 情報が少なすぎる。
「…年上で、会社の上司なの」
 定番すぎる。
「でもいつも緊張しちゃってその人の前では失敗ばかりで…」
 ベタだ。

 ここでナオは紅茶を一口飲んだ。つられて私もティーカップを手に取るとナオはとんでもないことを口にした。
「…女の人なの」
 ガシャン、とティーカップがソーサーに落ちた。もちろん紅茶も零れたけど冷めていたのでやけどはしなかった。予想外の言葉に呆気にとられている私を置いて、ナオはキッチンからタオルを持ってくるとテーブルの紅茶を静かに拭きながら「やっぱりびっくりするよね?」とぽつりと呟いた。

「あ、あーびっくりしたっていうか…想定していなかった言葉でしたので」
 なぜか敬語になる私に慌ててナオは訂正した。
「えっと、なんて言うか、好きになる女の人は友達とは別に一線を画しているって感じで…」
「あ、じゃあ私はそういった目で見られてませんか?」
「うん。安心して。っていうのもなんだか変だけど…」
 はー、と大きなため息をついたナオは小さく「なんとなく、ハナには知っていてほしくて」と顔を伏せた。

 ようやく自分を取り戻した私は気の利いた言葉も思いつかないまま話しだした。
「んんー。でも性別どうこうっつーか人を好きになるのは素敵だと思うよ。毎日が楽しくなるし、生活にハリが出るし、自分を省みることもできるし。何気ないことでも幸せだなあって感じてアルファー波だっけ?アドレナリンだっけ?みたいなのがでて体にもいいって聞くし。まあその思いが相手に受け入れられるかはまた別の問題だけどさ」
 ナオはうんうんと頷きながら上目遣いでこっちを見てる。
「絶対に女の人は男の人を好きにならなくちゃいけませんって法律も確かなかった気がするしねえ。『好き』って気持ちはもう一度思っちゃったらなかなか消えないし。他人事だから言えるのかもしれないけどそういうのもっと自由でいいんじゃないかしら」

「…よかったあー」
 そう言うとナオはポロポロと涙をこぼした。
「私、ハナに拒絶されたらどうしようかと心配だったの。『気持ち悪いから出てけ』って言われてもいいように荷物もまとめておいたのー…!」
 しゃくりあげて泣きだすナオの手を握った。小さくて温かい。ああ、ナオはどれだけ悩んで告白してくれたんだろう。そう考えると私の涙腺まで緩んできた。
「茨の道かもしれないけどさ、」
 うん、と頷くナオ。
「私はずっと味方でいるよ。安心しな」

 泣きすぎて鼻水が垂れてるナオにティッシュを差し出すとチーン!と大きな音で鼻をかんで、気まずそうにえへへと微笑んだ。