昨晩、鬱の森の使者が家にやってきた。私はよほどうっかりしていたのかインターフォンが鳴るやいなや誰なのか確認もせず玄関の鍵を開けてしまった。後悔をしてももう遅い。鬱の森の使者はいつもと変わらぬ様子で(決して自己主張をしないが圧倒的な存在感を背負いながら)さっさと家に上がり込んだ。手みやげはもちろん挨拶すらない。使者には愛想など必要ないのだ。
家に入れてしまったが最後、彼は勝手に冷蔵庫をあけ牛乳パックを手にし食器棚の前に立ち彼専用のカップを取り出し牛乳をなみなみと注いで居間のソファで悠然と新聞を広げはじめた。家主であるはずの私はそれの後始末(牛乳パックを冷蔵庫にしまい食器棚の扉を閉めこぼれた牛乳を拭く)を終えると彼と向き合うように座った。羨ましいことに使者には遠慮するということも不要のようだ。
「今日はまたずいぶんと急な訪問じゃないか」
思い切り嫌味を込めて言うが彼にはそんなものは通用しない。
涼しい顔をしながら使者はいつものように自分のジャケットに手を入れ内ポケットからよれよれになった封筒を差し出しながら言った。
「召集があってね」
私は内心でため息をつきながら話しかけた。
「さっきも言ったけど」
使者が乱暴に新聞をめくる音が部屋に響く。耳障りだ。
「ずいぶん急じゃないか?ついこの間も来ただろう?ほんの二三日前だ。あれから必死で帰ってきてやっとここまで調整したんだ。申し訳ないけどもう少し時間を置いてまた来てくれないかな。実際やることが山のように溜まっていてね。パソコンはまた不安定になっていて修理が必要だし洗濯もしなきゃならない。それに久しぶりに外に出て買い物がしたい。そうだなにより部屋が散らかっている。君にもこの惨状が見えるだろう?未だかつてこんなに自分の部屋が散らかったことは無いよ」
使者は牛乳を一口のみ、ゆっくりと頷いた。
「確かに急かもしれない」
「そうだろう?そう思うのなら君から森に言ってくれないか?もう少し日にちを先に延ばすように」
使者は私の訴えを断つようにわざと音を立ててテーブルにカップを置いた。ゴトリ。
「残念だけど」
そう口を開いた使者は慎重に次の言葉を選ぶように繋いだ。
「僕にはそこまでの権限はない。あくまで森と契約して雇われているだけなんだ。日雇い労働者と同じさ。ただ君の言い分はもっともだと思うがね。しかし森からの命令は絶対だ。命令があったからには僕は君を連れて行かなきゃならない。これは義務だ。僕の意志じゃない。理解して欲しいのはその一点だけだ」
そんなことはもう何年も前から知っている。このまま議論を続けてもお互いに得るものは何もないに違いない。
降参を認めた私は頭を振りながら立ち上がりおとなしく鬱の森に行く支度を始めた。